「与四兵衛伝」(承前)                 小馬出町 作井 宗人
 与四兵衛は、二番町の若衆頭、‘算段師’を生業としていたという。放生津で捕縛され、藩火付け盗賊改め本拠地の魚津に連行されて同地で死亡、享年39だった・・・と史実にある。39歳にもなって‘若者頭’はないと思われるが、彼を称える位として、かつて務めた‘若者頭’をはずせなかったのではないか。算段師もその実態は良く分からないが、家や構造物の取壊しを行う際はこの人たちの出番、また、建築が始まる前の現場でのいろいろな下準備も彼らが行っていた、そういう職種だったと推測する。
 江戸時代の高岡は幾度か大火に見舞われ、また洪水により水にも浸かった。このような際に活躍した職業ではなかったか。当時、身長160cmもあれば上等とされた時代に、170pを超えた容貌の方もちょいと‘良い男’だったと云う。これに気風の良い算段師となれば、かなりの人望もあった人物かと思われる。

 平成22年、高岡開町から400年が経過した。年代的に与四兵衛が活躍したのは、大雑把に今から約240年前頃の話である。この時点を軸にすると、これより約100年弱で江戸時代は終焉をむかえ明治の世となり、それよりさらに130年で今日に至っている・・・この頃の話なのである。当時の時代背景とすれば、加賀藩の高岡復興庇護政策が効を奏し、城下町から商人町へと見事に変換を遂げていた頃、相当の財力も蓄え、町民の意気も上がってきていた。反対に藩の御威光は財力の衰退とともに衰え始めてきていた頃の話である。高岡廃城となって一度はどん底を見た高岡だったが、経済力をバックに高岡町衆は相当に自信を持ち始めていた。その象徴的な存在が御車山の拵えである。この前後の100年間で、高岡町衆と云う有力パトロンを抱えた高岡工人達は、どんどんとその技量が向上し、同時に御車山は高岡工芸の粋・美術の集大成と云われる程度にまで完成度が向上していった。
 まさしく、この頃、御車山をめぐって一つの事件が起こったのである。